読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

無知蒙昧のブログ

無価値、無意味な覚書

発想・アイデアの正体

 行き詰った時、快刀乱麻を断つ如くそれを解決する何かを求め逃避するのは致し方ないことでしょう。誰だって悪夢を見れば覚ましたいと思うものです。

 ただもし仮にあなたが十分なノウハウを持ち人並みの頭を以てして「行き詰まった」と判断せざるをえない状況であったのだとすればそれを鮮やかに解決出来るのは稀代の天才くらいのものでしょう。そして稀代の天才がそもそもそこにいたのであれば行き詰まるような状況になる一歩手前ないしは更にもっと前の時点で予め手は打ってあります。

 それでも「何か」と逃避するのもまた現実にあり得る判断でしょう。そしてそういった時にこう叫ぶのです。

 

 「若い人の枠に囚われない柔軟な発想ならば」と。

 

 ではそもそも枠とは何か、発想とは何か、柔軟とは何を指し示すのかと言えば

 

 枠 : 過去の経験より積み重ねたマニュアル

 発想:過去の経験、あるいは論理展開、ないしはその組み合わせ

 柔軟:自身あるいはそれに精通したものにはない視点

 

 と、大凡こんなところでしょう。

 まぁ枠に如何に囚われることが出来るかを競う受験戦争を勝ち抜いてきた新入社員に何を求めているんだこの阿呆はという話は一度置いておいて、この「枠に囚われない柔軟な発想」に抱く幻想の正しい部分と正しくない部分について少し書こうと思う。

 

 まず、発想として何かに行き詰った時に視点を変えるというのは大変効果的だ。同じ視点から物事を考えるというのは常に連続的であるのに対し違う視点を入れるというのは一見断続的に見えて発想が出やすく思える。

 ただ問題としては、その新しい視点には大した経験がない。

 この新しい視野を追加することの利点は先程述べたように連続的な思考を断続的にすることにある。新しい視点が別の分野のスペシャリストであれば全く新しい意見が出ることもあるだろう。しかしながら同じ会社同じ部署に入った人間、それも社会経験が少なく共通の教育を受けてきただけの人間にそれを求めるのは些か酷だ。

 そもそも発想とは何か、それは前述した通り、経験と論理展開だ。発想には必ず過去の経験が必要になる。発想とは断じて断続的なことではなく、過去の経験から連続的に導かれる普遍的な論理展開だ。では先に述べた稀代の天才とは何かと言えば、過去の経験の一切を無視していきなり現在の材料だけで論理展開を行い答えを見つけてしまう人間のことをいう。

 そのため共通の教育を受けてきただけの人間から生まれる発想は、よほど特殊な趣味でも持っていない限り似たり寄った物になる。

 そして快刀乱麻を求める故に蔑ろにしている枠=マニュアルとは、過去の膨大な経験から良い経験のみを抜き出して作られたものだ。

 勿論その経験の中には、行き詰った経験だってあることだろう。つまりはそういうことだ。枠に囚われない柔軟な発想を期待した新人程度が考えつくことは既に考慮された上でマニュアルというものは作られている。

 

 

 もし仮に若者が枠に囚われない柔軟な発想を持ち出した時、あなたは懐疑的になるべきだ。その若者が稀代の天才でない限り、間違いなくその発想には採用できない大きな落とし穴が隠れていることだろう。慎重に議論を重ねることを望む。