発想・アイデアの正体
行き詰った時、快刀乱麻を断つ如くそれを解決する何かを求め逃避するのは致し方ないことでしょう。誰だって悪夢を見れば覚ましたいと思うものです。
ただもし仮にあなたが十分なノウハウを持ち人並みの頭を以てして「行き詰まった」と判断せざるをえない状況であったのだとすればそれを鮮やかに解決出来るのは稀代の天才くらいのものでしょう。そして稀代の天才がそもそもそこにいたのであれば行き詰まるような状況になる一歩手前ないしは更にもっと前の時点で予め手は打ってあります。
それでも「何か」と逃避するのもまた現実にあり得る判断でしょう。そしてそういった時にこう叫ぶのです。
「若い人の枠に囚われない柔軟な発想ならば」と。
ではそもそも枠とは何か、発想とは何か、柔軟とは何を指し示すのかと言えば
枠 : 過去の経験より積み重ねたマニュアル
発想:過去の経験、あるいは論理展開、ないしはその組み合わせ
柔軟:自身あるいはそれに精通したものにはない視点
と、大凡こんなところでしょう。
まぁ枠に如何に囚われることが出来るかを競う受験戦争を勝ち抜いてきた新入社員に何を求めているんだこの阿呆はという話は一度置いておいて、この「枠に囚われない柔軟な発想」に抱く幻想の正しい部分と正しくない部分について少し書こうと思う。
まず、発想として何かに行き詰った時に視点を変えるというのは大変効果的だ。同じ視点から物事を考えるというのは常に連続的であるのに対し違う視点を入れるというのは一見断続的に見えて発想が出やすく思える。
ただ問題としては、その新しい視点には大した経験がない。
この新しい視野を追加することの利点は先程述べたように連続的な思考を断続的にすることにある。新しい視点が別の分野のスペシャリストであれば全く新しい意見が出ることもあるだろう。しかしながら同じ会社同じ部署に入った人間、それも社会経験が少なく共通の教育を受けてきただけの人間にそれを求めるのは些か酷だ。
そもそも発想とは何か、それは前述した通り、経験と論理展開だ。発想には必ず過去の経験が必要になる。発想とは断じて断続的なことではなく、過去の経験から連続的に導かれる普遍的な論理展開だ。では先に述べた稀代の天才とは何かと言えば、過去の経験の一切を無視していきなり現在の材料だけで論理展開を行い答えを見つけてしまう人間のことをいう。
そのため共通の教育を受けてきただけの人間から生まれる発想は、よほど特殊な趣味でも持っていない限り似たり寄った物になる。
そして快刀乱麻を求める故に蔑ろにしている枠=マニュアルとは、過去の膨大な経験から良い経験のみを抜き出して作られたものだ。
勿論その経験の中には、行き詰った経験だってあることだろう。つまりはそういうことだ。枠に囚われない柔軟な発想を期待した新人程度が考えつくことは既に考慮された上でマニュアルというものは作られている。
もし仮に若者が枠に囚われない柔軟な発想を持ち出した時、あなたは懐疑的になるべきだ。その若者が稀代の天才でない限り、間違いなくその発想には採用できない大きな落とし穴が隠れていることだろう。慎重に議論を重ねることを望む。
犯罪者は普遍的であり社会に内在している
自身が何かしらの犯罪の被害に遭うと思って日々過ごしている人間は少ないことだろう。
それは、日本が他国と比べ相対的に平和ということであり、何の根拠もない確証バイアスがかけられた結果、自分が犯罪に遭うわけがないと無条件に信頼していることであり、そもそも犯罪者なんて身近にいないと犯罪者を特別視していたりすることが主な原因であろう。
だがしかし残念ながら犯罪者というのはそこまで特別な存在でなく、確証バイアスはバイアスでしかなく、平和であることと犯罪が無いことは繋がらないのだ。
犯罪者と非犯罪者の違いは些細なものでしかない、犯罪者は全員極悪な思考をしているわけではなく、大多数の非犯罪者と同じような思考をして生活している。
ただ犯罪に関するその一点でのみ多様性があったかないしはリストと成果の天秤に少しばかしバイアスがかかった結果非犯罪者と違う側へつまりは成果の方が大きいと判断出来る方へ傾いてしまっただけなのである。
今非犯罪者である我々とて犯罪を犯すには些かリスクが大きすぎるがために忌避しているだけであり、仮にリスクが消えたとしたらその途端犯罪は増加することだろう。
まぁ世間体を気にされる皆様方に於かれましては目に見えない犯罪が増えるくらいでしょうが。
結局何が言いたいかと言えば、報道の言うような犯罪者は極僅かしか存在せず、創作のような根っからの敵は存在しないということだ。
故に存在しない犯罪者を警戒することは全くの無意味であり、そんな無駄なことをするよりも普段接している人間を警戒するべきだというのが私の主張だ。
相手が始めから害意を持って近づいていくるとは限らず、また害を為しながらも害意を示すとは限らない。
最初から害意を持っていたとしてもそれを引っさげて「私はあなたを害しに着ましたよ」などとは言うはずもなく持っていなかったとしてもどこかのタイミングでそれを持つ可能性は存在する。勿論その間に害意を示すことはないだろう。
結果として存在しない犯罪者を警戒し続ける盲人は、気がつかないうちに害されるわけだ。
今回、この記事を書いたのはある動画を見てのことだ。
動画では、まだ若い女子大生がファミレスで男子大学生に胸を揉まれている様子が撮影され、周りの大学生はその状況を嗤っていた。
彼女の表情や声の色からは表面的には事を荒げずに収めようとしている意思が感じ取れ、その奥には恐怖と諦めが見れる。
Twitterでは、嘘か真か彼女はその集団で性処理を行う所謂肉便器と書かれていたりもした。そうでなくともこの動画だけでも異常の一言であるのだが……。
仮に時間を遡り彼らとの関係が始まる前の段階で彼女にこのビデオを見せたとして彼女はそれを望むか、あるいは許容するかと尋ねても彼女はそれを許容するといった答えは返さないことだろう。
ではなぜ、許容しないはずの状態になっているのかと言えば、彼らを警戒しなかった彼女が彼らによって日常的に毒を盛られ麻痺した結果と断言出来る。
初めは彼女にとっても望ましい関係だったのだろう。そこから一歩ずれても許容出来る望ましい関係だった。そこから更に一歩ずれても。
断続的であれば許容出来ないことも連続的に毒のようにじわじわと蝕まれると拒絶するタイミングを失う。
勿論、いつだって拒絶すればいいのだ。
「嫌だ」と一言言えば良い。
ただその一点のみを除けば望ましい関係であるのにそれを自身で拒絶し壊すのかという自責が生まれる優しい人間というのは一定数いる。
これくらいならと譲った一歩。
今更と許容した一歩。
結果として自身でもなぜそこにいるのか分からないような状況の出来上がりである。
今更彼女が「嫌だったんだ」と言ったところで衆目に晒されたからそう言っているだけだと捉えられることもあるだろう。発言こそ保険で実際はそうである可能性もなくはない。
彼女にとっては重すぎる結果であろうがこれが無警戒の代償であり、優しさの附けだと私は思う。
甘い幻想に囚われず日々摩耗する辛い生活に身を置かれることを私は願う。
ソシャゲ大好き
現実で求められるのは複雑な作業。 目に見えた成果なんぞあるわけもなく目に見える疲労が溜まるだけ。
だからゲームが好き。 与えられたタスクは単純明快でクリアして得られる成果は経験値として蓄積され分かりやすくレベルが上がる。
更に単純化され課金をすれば更に大きな成果が得られるソシャゲはもっと好き。 人生のつまらない作業の生み出したお金を単純明快な高レアリティカードに変換してくれるソシャゲが好き。
ソシャゲに複雑さはいらない。 ソシャゲに求めるカタルシスはゲーム内で難敵を斃すことではない。 ソシャゲに求めるカタルシスは課金とガチャ。
課金をすることで労働の意義を感じ、ガチャでカタルシスを得る。 ソシャゲよ有難う、ソシャゲを企画した者よ地獄へ堕ちろ
機械による自動化とそれに伴う貧富の格差の極大化
今日日、機械による単純作業の自動化が行われることは当たり前のこととして捉えられるようになった。
私自身、プライベートにpcで行う作業も単純なものはさっさと自動化してしまっている。
では機械による自動化はどこまで進むのかと考えると、終わりはないように思える。
ただしそれは費用対効果を無視した場合といった注釈はつくことになるが。
昨年にはGoogle DeepMindにより製作された囲碁AI『AlphaGO』が世界最強の棋士を打ち破ることでAIのひいては深層学習(Deep learning)の存在をこれでもかと示した。
囲碁という限りなく自由度の高い人間優位とされてきたもので人間を打ち破ったのだ。
その衝撃は計り知れない。
コストに目を瞑り、行えるかどうかといった一点にのみ絞れば大半の事は人間の代替として働くことが可能なのは火を見るより明らかなことだろう。
そしてその色は今後ますます強くなっていく。
結果として自動化の進んだ近い将来に生まれる社会では、我々人間のこなせる仕事は、
1. 機械で自動化出来ない仕事
2. 機械で自動化するにはコストが嵩む仕事
の2択となる。
更に時代が進むに連れ1の範囲は縮小し人間の仕事として話せる分野は2と言ってしまっても差し障りないことになるだろう。
結果として、
機械を所持する人間の取得は極大化しそうでない人間の取得は限りなく0に近づくことだろう。
人間の数を賄う生産を行うのに同じ数の人間が必要な時代は終わりを迎えるのだ。
正確に言えばそんな時代は遠の昔に終わっているのだが、それが目に見える形となってすぐそこまで迫っている。
そしてこれは、第一次産業だけの話ではない産業全体に対して言えることだ。
そうした時代になった時、我々は遂に問われるだろう。
「人間の価値とは何か」
と。
目指した理想と現実、カジュアルゲームの隠れた難しさ
最近あるゲームにハマっている。
そのゲームは所謂放置ゲームを目指したカジュアルゲームでタイトルを「しくじり勇者は優柔不断 ‐勇者ヤスヒコと魔界の冒険‐」という。
ゲームの内容としては、キャラクターを強化しながら魔界を先へ先へと進んでいく一般的な放置ゲームだ。
私はあまりカジュアルゲームをプレイしない事もありプレイするまで知らなかったのだが、前作に当たる「中年騎士ヤスヒロ」が結構なヒットをしていたために作られた謂わばマイナーチェンジ作品のようだ。
今現在そちらはプレイしていないので正確ではないことも含まれると承知して頂きたいが今作は前作から更に要素を増やしやりこみ度を上げたことを売りにして行きたかったように思われる。
前作は既に1年以上配信されプレスリリースサイトを見る限り様々なイベントも行いユーザーからの評判も良いようである。
そんな状態でのマイナーチェンジ作、前作の失敗、或いは成功を糧として作られた今作は前作を上回る評判に……はならなかった。
SGIのプレスリリースで今作を知った私が見たのは低評価の嵐だった。
曰く、爽快度が足らない。
曰く、ザコ敵が強すぎる。
曰く、タップダメージが弱すぎる。
…
……etc
私自身プレイしていて同じことを感じていたので「まぁ妥当な評価だろうな」とは思った。
レビューを見ていても分かるが低評価は書きつつも世界観、特に配信元のポラリスエックス様の社長であるヤスヒロ氏が書いているというキャラ同士の掛け合いがとにかく面白くそこに引き込まれているものの肝心のゲームのバランスが絶望的なのでどうにかしてくれという謂わば嘆願だった。
運営にしてもまさかこんな評価になるとは夢にも思わなかったようで丁寧に一つ一つのレビューに受け答えし、問い合わせからの改善提案も一蹴することなく中身を精査し社内共有を図ってくれている。
朝4時に送った改善提案に朝6時に返信し翌日のアップデートに載せてくるほどである。
なぜ失敗したのか
ではなぜそもそも豊富な運営経験があったにも関わらずこんなバランス調整になってしまったかと言えば偏に複雑すぎたためだろう。
1年以上続けてきた前作でやれなかった理想をこれでもかと詰め込んだ結果ブラックボックスが出来上がってしまったのだ。
実際にプレイして、ゲーム内のテキストを読んでいる感じ、開発も何がどう作用しているのか分かっていないような気がする。
装備、鍛錬、仲間、コスプレ、魔道具、魔法、スキル、アイテム詰め込んだあらゆる要素から入った入力が攻撃力や体力として出力してくるわけだが、どうにもテキストから読んだ印象と実際に出力として作用している部分が異なっている。
実際にはどこかしらに作用しているのだがテキストから受ける印象と実際の出力があまりに異なっているためレビューでも作用していないと不具合報告を受けている。
そして仮にそれを正確なテキストに修正しヘルプかなにかを用意して計算式を掲載することで情報を正確にユーザーに伝えたとしよう。
次に来る問題もやはり複雑さだ。
放置ゲームにおいて最も簡単にバランスが調整出来るのは、キャラクターのレベルだけが入力で、攻撃力と体力のみを出力する場合だ。
この場合、攻撃力や体力が依存するのはレベルだけであり、敵の強さに合わせたキャラクターの強さになるように敵を倒した際に得られるEXP = キャラクターのレベルを調整すれば完了である。
しかし今作においては、キャラクターレベル、装備(+鍛錬)、魔道具、魔法、スキル、アイテム(課金)が全て独立なパラメータとして存在している。
そのためかなり複雑なバランス調整が必要になる。
複雑さの理由
もしも私がバランスを調整しろと言われても間違いなく匙を投げる。
先に述べた簡単なものなら適当な数式を作り出して後はエクセルでサーッと実際の値を出して終わりでいいのだが、こうも複雑になるとそうもいかない。
N層~N+9層を突破するのに想定するキャラクターレベルを決め、そのキャラクターレベルまで上げるのにかかる金額から装備の鍛錬度合いを決め、N層までで得られるキューブ(魔道具育成アイテム)から魔道具の補正を決め、ダンジョンの解放度合い(マップの進捗度合い)から前提とする武器の製作具合を決めとあらゆる想定をしてから敵の強さとそのEXP(ゴールド)を決める必要がある。
言い方を変えれば数式から出すどころか0から全て調整することすら無理だ。
武器の製作度合い一つとっても武器の製作には素材が必要で素材が手に入るダンジョン攻略には一日あたりの入場制限があり、武器を製作するのに更に費用がかかり、費用であるニャンコインもまたダンジョン産、そしてその取得量を魔道具に依存し、魔道具の育成具合はステージに依存しと考えてると馬鹿らしくなってくる。
最後に
私とは頭の作りの違う頭の良いえらーい学者様も物事を考える際単純化することでなんとか式として表しているのだ。
私にはこのブラックボックスを快刀乱麻を断つが如くスマートに解決することは出来ない。
各階層毎にテストケースを作り嫌になるほど細かい調整を地道に続けていく他ない。
私はこのゲームに製作の理想を見た。 そしてこのゲームのバランスにその現実を見た。 理想に共感し、現実に同情した。 私は理想を追求する「しくじり勇者」の運営を陰ながら応援しています。
他人の立場になって考えるな
言葉で十人十色なんて知っていてもなぜ十人十色なのか考えない者が多い。 そしてそういう人間は子供の頃に教育された「他人の立場になって考えよ」といった言葉を誤って理解している。 私に言わせれば相手の立場に立って己の思考・観念形態を適用しようとするくらいならば他人の考えなぞ考えぬ方が良い。 自身の思考を紐解けばその根源が自身の経験に帰属することはすぐに理解出来るはずだ。 相手の立場になって考えるには相手の現在の立ち位置は勿論それまでの人生をトレースする必要がある。 更に言えば異物となる自身の観念形態を一度排除しなければならない。
これが如何に難しいことかは容易に理解出来ることだろう。 だが現実問題として相手の人生の過程を辿ることは不可能だ。 それ故、相手の立場になって考えることが仕事のカウンセラーは相手に聞き取りを行う。 少しでも情報を集めて相手の考えを理解するために。 そこまでして最低限の土台が出来るのだ。 そんな複雑な事を素人が日常的に出来るわけがないのだ。
己の他に一番己を知っているのは両親だろう。 子供の頃から独り立ちするまでその人生を一緒に歩んでいる故に一番理解しやすい存在だ。 そんな親でも子供を見誤る。 それを理解した上でどうするか。
相手の気持ちを考えなければいい。 それは公共の福祉に反しろということではなく、相手ならばどうするかを絶対視せず『私ならば』と考えたことを絶対視せず目で見て耳で聞いたことを第一に置け、ということだ。 相手の考えなんて分かるわけがないのに相手の言っていることを否定し「こうあるはずだ」と断じることは最も愚かな行いだ。 私自身その失敗を、大きな失敗をした事がありとても後悔している。 私以外私でないことを日々意識して生きていかねばならない。
ゲーム(フィクション)と現実を混合することの意味を漸く知った
価値観が歪み思考が浅くなり創作の中の主人公、ヒロインにでもなったつもりになり理知的な判断が出来ない人間になる。
そういう意味でなら創作脅威論(仮称)にも賛同出来るな、と。
他にもあるだろうが下記のようなものを特に見受けられる。
頼むからこちらに飛び火させてくれるなと言いたい。
勧善懲悪
脳内で定めた悪を懲らしめるための行動は絶対的な正義である例えそれが法に反したとしても
恋愛至上主義
愛する者の為であれば全てを顧みず行動すべし
愛は永遠
愛があれば苦は苦でない